「甘くて柔らかくて幸せな気持ちになってしまうもの」


と言えば、いくつか思い浮かぶけれど、今の僕に思い描けるのはどうやらたった一人らしい。

茶色の髪の毛が少し跳ねていて、空よりも澄んで明るい瞳を持った、弾けるような
笑顔を持つ彼。

その笑顔が自分に向けられた時にこの胸に渦巻いた甘い衝動を思い出して、僕は頬杖を
ついたまま熱いため息を吐いた。

件の彼の姿を求めて僕は窓の外に目を向ける。
そこには、ああ、確かに彼の姿が見える。―――僕のただひとりの想い人。


―――退屈な授業中、ふと見下ろした窓の外に見つけた彼の姿。
どうやら体育の授業中らしい。
サッカーの授業らしく、今は試合の真っ最中のようだ。

懸命にボールを追う姿がまるで子犬がじゃれついてるみたいで可愛らしい、なんてことを彼に言ったらきっと真っ赤になって照れてくれるのだろう。
そして、拗ねたような口ぶりで控えめに抗議をされてしまうのだろうなと想像した瞬間、僕は彼に会いたくてたまらなくなった。
今すぐ彼の元に行って、彼の声と笑顔をこの身に受けたいなんてことを考えるほどに。
全くどうかしているとしか思えないくらい、僕は彼のことでいっぱいになってしまっている。
だからこそ、僕にはとても不思議でならないことがある。


――だって。ねえ?
おかしいじゃないですか。
こんなに愛しい彼が、まだ僕のものじゃないなんて。


放課後はいつも会計部の仕事にかこつけては一緒に過ごしている。
ことによれば、寮に帰ってからだって機会をとらえては二人で過ごしているというのに。

なのに。まだ。

「――まだ、君のことをつかまえていないなんて」

手にしたシャープペンを弄びながらそっと呟くと、我ながら“恋する乙女”みたいだ、とおかしくなった。


☆☆☆


「伊藤くん?」

中庭の陽だまり。芝生の緑に紛れて見える明るい茶色に、僕はそっと声をかけた。
会計の用事に出たまま、ちっとも戻ってこない彼が心配になった僕は、郁から「過保護だな」なんて笑われながらも、探しに来てみたのだ。
だって仕方がない。僕はどうしたって彼のことが気になって仕方がないのだから。
悪い狼さんに捕まってしまっていたらどうしよう、と思うと、気が気でなくなるくらいに。

―――それに、郁。と、内心で言葉を紡ぐ。

僕のこれは「過保護」なんて可愛らしいものではなくて、正真正銘の醜い独占欲に
ほかならないんですよ。

自分の頬に浮かんだ仄暗い笑みを自覚して僕はひとつ苦笑した。

足音を殺して近寄ってみれば、案の定、彼はお昼寝の真っ最中らしい。
お腹の上には心地良さそうに箱座りするトノサマの姿まで。
どうも用事の帰り道にトノサマにつかまってしまったらしい、とあたりをつけると、僕は寝転んだ彼の隣に腰を下ろした。
トノサマがチロリと片目を開けて僕を見る。そのまま昼寝に戻ったところを見ると、僕がお邪魔することを許されたようだ。
だというのに、肝心の彼は健やかに寝入っているようで、そのあどけない表情に笑みが
こぼれた。

一気に低くなった視点から上を見てみれば、抜けるような青い空があった。
柔らかい風が中庭の木立から僕たちの上を吹きすぎていくのが心地良い。

傍らには大事な彼が眠っていて、僕はまるでその門番のように彼の眠りを
守っているみたいだ。

「ああ、トノサマがいましたね。伊藤くんの番人のお役目ありがとう」

呟くとトノサマのふさふさとした尾がひとつ揺れた。
それを見て喉の奥でふふ、と笑う。

見下ろした彼の寝顔は、その無防備さにいらぬ心配をしてしまうくらいだ。
たとえば今、不埒な人間が君に触れたらどうするの?

――こうして、君の髪の毛に触れたり、その頬を辿ったりしたら。

伸ばした指で梳いた髪の毛は柔らかくて、くせっ毛がちょっとだけ指に絡まるのも愛おしい。
髪にこんなふうに触れても、まだ彼が起きる気配はない。
だから、もう少しだけ、と僕は自分の我が儘を許してみることにした。
なめらかな頬を撫ぜて、薄く開いた唇をそっと指でなぞってみる。

「――まだ、起きないんですか?――ふふ。そんなにお昼寝は気持ちがいい?」

密やかに言葉にした呟きは、自分でもおかしいくらいに甘い口調だった。
砂糖菓子に練乳をかけてもまだ足りないほどに。
そのまま、最近の気候のせいか少し荒れ気味の唇を慰めるつもりで、やんわりと上唇を
指先でなぞる。
続けて、ふっくらとした下唇を。
さすがに、もごもごと口を動かして彼はわずかに眉をしかめた。
少し、くすぐったかっただろうか。
これ以上は目を覚ましてしまうかもしれない。
そうは思ったけれど、僕の手は勝手に彼の首筋に降りていく。
シャツの襟足を辿りながら、きっちりと締められたネクタイをなぞると彼の体が僅かに
身じろいだ。
そういえば、「うまく締められないんですよね」と、いつかぼやいた彼の為と称して、
二人で“ネクタイを締める練習”なんてしたことを思い出して小さく笑う。
そんな小さな口実さえも利用しなくては彼に触れることが出来ないなんて、「先輩・後輩」と
いうカテゴリはなんて不自由な括りなのだろう。
ふう、ともの思わし気にため息が零れる。

「ねえ?伊藤くん。
僕の前でそんなふうに無防備になってしまっていいんですか?」

―――悪い狼さんは学園の中に大勢いるけれど、その中でも一番性質が悪いのは
確実に僕だというのに。

「それとも、本当は待っていてくれているんですか?」

―――僕に攫われるのを―――、とは声にしないで囁いた。

静かな呼吸を繰り返す彼の唇を見つめながら、僕はそっと身をかがめると彼の閉ざされた
瞼に羽毛のような軽い口づけを送る。

ああ――、ほんのわずかに瞼が動いた。もう目を覚ます頃かもしれない。
もっとも。と、喉の奥で笑う。
こんなに悪戯を仕掛けられても起きないなんて、それもおかしな話だけれど。
トノサマの目が薄く開いてそんな僕を見る。
すぐに呆れたように目を閉じたけれど、きっと今の僕は滑稽なのだろう。
でも、そんなことよりも今の僕の望みは。

相変わらず眠り続ける彼に視線を落とす。
とたんに胸の中で弾ける甘い疼きに鼓動も跳ねた。

起きて。そして僕を見て。
あの空よりも明るい青を宿すその眼差しで僕を見て。
そうして、僕のこの想いを受け取ってくれたらいいのに。

「さあ、早く起きて。
そうしないと、つかまえてしまいますよ?」

手のひらで頬に散る茶色の髪を梳きながら落とす言葉に、君の瞼がぴくりと動く。
ほんの少しだけその肩に力がこもったのに気がついたけれど、構わずに声を落とした。
優しく、優しく、僕の声が染みとおるように、優しい声で。


「――だって、昔から言うでしょう?
花盗人の罪は問われず、とね」


だってきっと、それは盗まれた花の望みでもあったのだろうから。

摘まれた花も本望だったのだろう。

勝手な言い分?

――そうかもしれないけれど、でもそれはある意味では真実だろうとも思う。

だって、盗人は花のことが好きで好きでたまらないから、仕方なく攫っていったのだろうから。


「僕が盗人になってもいいんですか? 君は、それでいいの?」


指先で瞼を撫ぜて目覚めをうながすと、もう今は隠しきれないほどに彼の頬が強張っている。
心なしか赤くなった頬に小さくキスを落とすと、堪えきれないとでもいう風に瞼がキツく
閉じられた。


「起きてください。伊藤くん。
―――そうして、君のことが好きでたまらない僕のことを見てください」

ねえ?と、囁くと、困ったように眉根が寄せられた。
ふふ、と笑うと、トノサマがぶにゃ〜と鳴いて彼の上から飛び降りる。
そのままチラリと僕を見て、さっさとどこかに行ってしまった。
「やってられん」と言いおいて去って行ったトモダチには悪いけれど、僕だって今は
譲れないのだ。
大事な彼をこの手に収めるためのこの一瞬だけは。

「伊藤くん?」

だから、もう一度囁いてみる。

――起きて、と。


困惑したような彼の瞼が、やがてゆっくりと開いた。
眩しさにしかめられた目はしばらくシパシパと瞬きをすると、ギクシャクとした動きで僕の顔をとらえる。

―――ああ。僕が望んだ蒼穹の青だ。

潤んだ瞳が拗ねた色を佩いて僕を見上げる。

―――さあ。

僕が花盗人になれるかどうか、早く教えて。

間近に見つめる彼の顔。その唇がゆっくり開かれる。


―――そうして、盛大に照れたらしい彼が小さく告げた言葉に、

―――僕は微笑んだ。





<FIN>



狩野まどか様からこんな素敵なSSをいただきました。(悶)
もう盗んじゃって下さい。手折っちゃって下さい。
最後に啓太が言ったセリフが気になります。
でもそれを聞いた臣さんはそれは幸せそうに微笑むのでしょうね。(妄想爆発)
もう毛穴から色んな汁が出ましたよ。ホントに頂いちゃいましたよ。
家宝にします。ありがとうございました。